毎日同じように「雨」だの「曇」だのと書くことに、こだわらないことです。
啄木ははたして、意識して毎日の表現を工夫していたのかどうかわかりません。
人間は日々変化し成長してゆく存在なのですから、二度同じ体験はしていないものです。
その目で天候を記せば、表現が変わるのも当然でしょう。
書きつづけていれば、飽きがきたり、変化を求めたりということで、自分の日記にあった書き方を身につけてゆくことと思います。
ところで、何を書いても自由な日記をなぜつけるのでしょうか。
中学卒業後、なぜ書くか農業に従事しながら著作活動をつづけている山下惣一さんは、日記の動機をつぎのように記しています。
父と母への反発と憎悪からぼくの日記ははじまったから、時期はたぶん中学生のころだ。
とにかくオヤジが口うるさくて、きびしくてやりきれなかった。
昭和2年代の終りのころだが、農家の子供は農作業の手伝いにこき使われ、遊びたいさかりに遊んだ記憶がない。
オヤジは軍隊帰りのスパルタ精神で、腕力でも口論してもかなわない。
心にうっ積したものを叩きつけるように毎晩日記に書いた。
日記は心のうさの捨てどころだった。
日記の中に閉じこもって、父とも母ともいとことも口をきかなかった。
母が心配して、こっそり日記をのぞいている気配があった。
日記帳のページの間に小さな紙きれをはさんでおいて、他人がページをめくると、はらりと紙きれが落ちて、それに気づかれないような仕掛けをつくった。
紙きれが落ちていると、すかさず、見るのを待ちかまえていたのだから、われながら扱いにくい子供だったみたいだ。
一言もろをきかなかったのに、日記が十分に親子の心の通いあいを助けていたかのようで、動機の激しさのわりには、かえってほのぼのとした人間関係を感じさせる文章です。
つぎにあげるのは、堀江謙一さんが書いた『太平洋ひとりぼっち』に載っている日記の一部です。
これは、堀江さんが一九六二年五月十二日から九十四日間をかけて、太平洋を一人でヨットに乗って横断したときの航海日記で、冒険旅行という動機があって書かれた日記の一例といえましょう。
「朝から雨。
今夜の出発は、どうかと気づかわせた。
予定どおり、出ることにした。
午後8時45分、ムアリングロープ(もやい綱)をはずす。
飛び出したとおもったら、完全な無風状態に入る。
その後、西宮灯台を通過するまでに、1時間2ひ分を要した。
風がない。
セールは波にゆられてパタンパタン。
それでも午後になって、西からの微風が吹きはじめる。
しめた、とおもったら、夜とともになくなってしまった。
朝から、のどの渇きが激しい。
気圧は一〇二二ミリバールときいている。
なんともやりきれない。
二日に一本(小ビン)のはずのビールを、一日で二本も飲んだ。
予算オーバーだ。
それはともかく、あとで大変なことを発見。
清水を入れてあったビニール袋が、いくつか破れている。
嵐のせいにちがいない。
もちろん、中身は減っている。
調べてみると、六五リ″トル積みこんできたのが、ぜんぶで一八リ″トルしか残っていない。
大ピンチだ。
エー、まあ、いいや。
そのうちには、雨も降るやろ。」
海には、水がたくさんあるしどの日の日記を読んでも、かならず風の状態が記録されているのは、それが航海になくてはならぬ条件だからでしょう。
外見にはのどかな船旅のように見えますが、たいへん緻密な計画にもとづいた記録であることがわかります。
登山好きの「山日記」、花を観察した「花日記」、読書感想文を書き綴る「読書日記」、あるいは「音楽日記」「学習日記」「スポーツ記録日記」「学級日誌」など、動機や目的によって日記の内容もおのずから変わってきます。
しかし、いずれもが、日々の生活体験に即した経験記録という点では共通しています。
日記を書くことでストレスを解消し、日々の生活に落ちつきをあたえている人もいます。
精神科医の斎藤茂太さんは、日記についてつぎのように書いています。
私は本能的に日記を好むようで、小学校高学年のころから、乏しいこづかいと、かなりの時間を日記に費してきた。
子供には贅沢な革張りの自由日記に、一日の出来事を五枚も六枚も書き綴ったものである。
ところが戦後、わが家の再建、病院経営の全責任が私にかかってくると。
時間に追われ、次第に従来の日記形式からは遠のいてしまった。
だが行動の記録は手帳に、感情的な喜びや怒りはすべてメモにして残してある。
そのメモに伝達の意思は一切こめられていたいから、手帳と合わせれば、一人前の日記といえるだろう。
このメモが、ストレスの解消に有効なのではないかと思う。
憤りをストレートに伝えたら不愉快な思いはつのるだけといったとき、私は心中の怒りを、文字に託して吐き出してしまう。
それらのメモを私は捨てないで、保管してある。
見たり、原稿を書くときの素材ともなる。
喜怒哀楽の感情は、多くの場合一過性のものだ。
そうなればストレスなどたまるべくもない。
私には一石二鳥、三島ともいえるメモなのである。
日記に綴る心情吐露も、後で振り返って整理することが大切である。
整理することにより、そのときの自分を冷静に、客観的に眺められるし、また書いたときとは正反対の感情が芽生えていることすらあるからだ。
こうしてみてくると、日記をつけるという営みは、その人その人の生き方、人間のあり方と深く結びついているように思われます。
ですから、日記をつけることで生活を生き生きとさせるだけでなく、積極的に日記を、自分の人生目的に役立だせようという利用の仕方も、そこに生まれます。
表題日記の試みつぎに紹介する哲学者の鶴見俊輔さんの日記は、一日の日記に表題をつける、あるいは、あらかじめ決めておいた表題にそって書いた文章で、日付のあるエ″セーになっています。
私は自分に都合のわるいことはトップに言っておくのだが、自分に都合のよいことばかり言って、都合のわるいことをのこしておく人がいる。
それが、おとなだ。
もりきれないほど多くのものを自分の皿にもろうと望まないこと。
自分の領土をせまくかぎり、自分に必要な最小量以上のものを、かたくこばむこと。
ある一色のものにのみ、目をならすこと。
それ以外の一切の色彩にたいして、心を動かさないこと。
おなじ一つの類のものの中で、なるべく多くの種をあつめること。
異質的なものを決していれないこと。
単調さにむかって自分を訓練すること。
おなじことをくりかえしてあきない心をつくること。
理想の水準をこのように最低線にさだめて、これより1ミリさがることに自分を許さないこと。
「理想について」「価値について」表題化することは、抽象化することです。
たとえば、友人とのいさかい、あるいは異性の友人への思いをしたためて、「友情について」あるいは「愛について」と表題をつけてみると、それが一つの話題であることがわかります。
何を書いてもかまわないのが日記なのですから、表題の立派さにくらべて、なんとも貧弱な内容の文章にしかならなくとも、それでも表題をつけるという営みは、書く力をつけるために、たいへん役立ちます。
書くことが好きで、自然に身についている人はともかく、おおかたは、きっかけや必要性によって、書くことと付き合ってゆくことになるようです。

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